月: 2018年3月


  • 必要なソフトをインストールし、KVM環境を構築します。
    今回は、仮想マシンマネージャを使ってGUIで仮想マシンを作成してみました。
    インストールDVDからISOファイルを作っておく必要があるのですが
    ここらへんは、ネット上の情報通りで無問題。

    ところがデバイスマネージャに『不明なデバイス』があることに気づいた。
    ベンダーIDを確認すると、1AF4・・

    https://pci-ids.ucw.cz/read/PC/1af4

    調べてみると、Red Hatとのことなので、virtioドライバーをダウンロード、インストールできました。
    で、いよいよPCIパススルー。

    BIOSを設定からLinuxカーネルでIOMMU機能を有効化。
    仮想マシンマネージャでPCIデバイスを追加してみたのですが

    すんなりとはいかないものですね・・・。


  • 1週間なやんで、マザーボードを購入することにしました。

    今ある資産を有効に活用し、投資はできるだけ抑えたい。
    となると、選択肢は限られてきます。

    Mini-ITX 規格でメモリはSO-DIMM スロット、できればCPUオンボード。
    そして、VT-dをサポートしていること。
    選んだのは、ASRockの『J3455-ITX』

    VT-dは海外の掲示板で確認済み。メモリとOSをインストールしたHDDを換装して電源ON。
    無事、起動!!

    しなかった・・・。
    んっ、なぜだ?

    とりあえず、余っていたHDDに交換してLinuxをインストールしてみる。
    ちゃんと、起動するじゃないか。
    ということは、マザーボードが原因ではないのか・・

    今更データベースやらSambaやらメールサーバを入れ直すのは、死ぬほどめんどくさいし
    ということで、BIOSを再度確認してみました。
    あれれ、HDDは認識しているのに起動順序のところにでてこない
    ということはBIOSの設定が原因なのか??

    いろいろ調べていたら、ありましたよ!
    http://gihyo.jp/admin/serial/01/ubuntu-recipe/0457

    CMSを有効にして、無事起動しました。

    んっ?
    なんか起動がおそい・・・。なぜ?

    マニュアルを確認してみると、サポートするOSはWindows10 64BitとUbuntu16.10 / Fedora25になっている。
    ということは、カーネルバージョンは4.8か・・。
    インストール済みのCentOS7のカーネルバージョンは3.10。そこで、ELRepoリポジトリを使ってカーネルのバージョンをあげてみる。

    おぉぉー!サクサク動くじゃないか!!

    思えば、長い道のりでした・・。
    いよいよ、KVMパススルーに挑戦です!!!


  • 録画マシン兼いろいろサーバーのハードディスクがいっぱいになってきました。
    なので、ハードディスクを交換することに。

    Windows VistaにPX-W3PEを搭載、TVTestで録画マシンを構築。さらにVirtualBoxのゲストにLinuxを載せて、ドメインコントローラやメールサーバーを構築していましたが、Vistaのサポートが終了していることもあり、今回はCentOS7をメイン、Windowsをゲストで行くことに決定しました。

    以前は色々と拘ったインストールも今回はほぼデフォルトで、Samba4をインストールしてActiveDirectoryのドメインコントローラに(ソースからインストールしました)。

    データベースやメールサーバ、その他もろもろインストールして、いよいよKVM。Vistaをゲストにして録画させようという企みです。

    と、ここで問題が発覚!
    PCI-Expressをゲストからアクセスするためには、VT-dをサポートしたマザーボードが必要でした。
    方法は2つ。マザーボードを替えるか、USBチューナーに替えるか。

    うーん、どうするか・・・。


  • 大正末期から昭和初期にかけて
    といえばアメリカでは歴史に名高い禁酒法の時代である。
    この時期、カリフォルニア一帯を舞台にして活躍した日本人拳闘家がいた。

    まだティーンエイジャーだった中村金雄である。
    色白の細っこい少年拳闘家の中村は、リングに上がるたびに必ずノックアウトで試合を終わらせた。
    カリフォルニアは日系移民の多い地方で
    中村が対戦する日はロサンゼルス、サンフランシスコ、サンノゼ、サクラメントなどの日本人街から応援団が駆けつけた。
    そして、中村が勝つと邦字新聞の号外が出たという。

    中村金雄は非力なボクサーだった。
    顎もボディも弱く、一発パンチを食らうとダウンしてしまう。
    彼はその弱点をよく知っていたので、完璧な防御をマスターした。
    また、パンチ力もないので、カウンターを学んだ。
    相手が打ってくるところを巧みにかわして、カウンターを打ちこんで倒した。

    昨年の晩秋、ロスに行ったとき「ナカムラのこと知ってる」という八十八歳の日系女性に会った。中村を語る老女は懐かしさと誇りに輝いていた。
    ナカムラは決してハードトレーニングをしなかったという。
    練習量は他のボクサーの半分以下、その代わりに酒も煙草も女遊びもせず、いつも静かに笑っている素敵なボーイだった、と彼女は語った。

    中村の面影には時代離れした合理的精神を嗅ぎとることができる。
    すべてを犠牲にした牛馬のような猛練習の反措定として、あの少年ボクサーのことをいつも思い出すのだ。
    (昔読んだコラムから)